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郊外の棚田
「羊子の不満」
■303■ 2
月19日
これはお互いの物の見方、考えか方の違いで、永遠に解決できない問題かも知れない。
葉子はサキが退職後一日中家にいることが息苦しいという。今までは朝、会社に弁当を持たせて送り出すと、それからはすべてが自分の時間で、何をするのも
気ままに出来た。食事をするのも、買い物に出かけるのも、読書をするのも、テレビを見るのも、時にはうたた寝をするのも全て自分の気分次第というところが
気軽だった。それが夫の退職後はなぜか家にいるというだけで息苦しい。むしろ生き生きとしている夫の見解とまったく反対のものだ。世間でいう「粗大ゴミ」
とまではいわないなでも、なんだか無視できない状態だ。
夫は退職後は自由気ままにやっていきたいと、ここチェンマイでの生活を始めたのだから、葉子も同じく気ままな生活をしてみたい。それが、夫が家にいるだ
けで、朝食も、昼間も、夕食も時間を気にしなくてはならなくなったのが、逆に窮屈だ。自分一人であれば、夫を送り出して、朝、天気が良ければ洗濯をしてし
まえば、結構気ままに時間を過ごすことが出来る。掃除も、朝やろうが、そのままにしておこうが気侭。食事も気が乗ればありものでさっさと済まして自分の時
間をエンジョイ出来る。
葉子は仕事を持っていた。かなり熟練のいる仕事で、余人の手の出せないジャンルの仕事であったので、結婚してからも自宅で続けていた。それを見た夫は、
当時住んでいた村の流行でもあった日曜大工でアトリエを作ってくれた。こういうところは器用で、最後の込み入った部分は本職の手助けをもらったが、結構本
格的に仕上げてくれて、これで子育てしながら仕事も続けられるとの矢先、仕事でバンコクからの誘いがあって、当時クリエーターとしての行き詰まりもあって
か、さっさとタイ行きを決めてしまった。この仕事は結構家計の助けにもなっていた。タイから1年で移り住んだ香港でも、子供の手がかからなくなってから、
習い事を始めた。数年していい先生に巡り会ったこともあってあるコンクールで新人賞などを取って、さてこれからだというときに、夫はさっさと仕事を辞め
て、「香港は仕事をする場所で、老後をのんびりと過ごす所にあらず」と、香港での20余年の生活に見切りをつけ、さっさとタイの北部の街、チェンマイに移
住を決め込んだ。最後の場面での相談はあったが、こんなに急とは考えてもいず、心の準備が出来ないままの引っ越しだった。それに親密にしていた友人と分か
れるのがつらかった。
そんな夫に反対するどころか、チェンマイをかなりの田舎と勘違いしていて、今度こそはのんびりと自分の時間をもてるだろうと期待していたのだが、この街
は結構都会で喧噪の街だ。葉子は都会派だから度田舎よりは住みやすいだろうと夫は思っているようだが、葉子が考える都会は東京や香港、サンフランシスコの
ように公共交通が発達していて、自分でどこへでもでも気軽に出かけられる街だ。それでは、車の運転を習ってみたらとさかんに夫は勧めるのだが、今更の感が
あり、それにこの交通ルールのずさんな街では、自転車に乗ることでも恐怖を感じるくらいだ。もっと良く調査をして、移住に反対すれば良かったと、自分の迂
闊さを反省しても今更どうなる問題でもない。
四方を山に囲まれた静かな盆地の街とイメージしていたチェンマイは、もっと山奥の静かな空気のきれいな田舎町だと思っていた。車は多いし、排気ガスはも
う危険状態まで達しているというし、第一交通手段が、ソンテウというピックアップトラックに座席をつけたものだけで、これは人間様を運ぶのではなく荷物と
変わらない扱いを受けているのが気にくわない。香港のミニバスは良くできた乗り物だと今頃感心している。あんなバスが走らない物かと期待しているが、最近
走り出した路線バスは中型車を使っており、10バーツと値段は良いのだが利用者とバスのサイズがミスマッチで、ガラガラ状態で走っているのをよく目撃す
る。どうしてあんな不経済を平気でやっているのかと考えると腹立たしい。そのバス路線も、現在のところ、街中心部と郊外の新興住宅地を結ぶものだけで、住
まいの付近はバス停が新しく出来てはいるがいつ走り出すのか見当がつかない。先日出会ったご婦人のように、自転車で行動半径を広げる手はあるが、何せ子供
時代に乗っただけで不安がある。それに交通マナーがいい加減なこの街では、とても自転車に乗る気分にはならない。ここではバイクが庶民の足であるが、とて
も怖くて運転できない。
だからチェンマイ大学の美術部に先生を捜しに行ったのが昨年で、ちょうど夏休み中のことだったので、うまく見つけられないままになっているし、タイ語も
勉強すれど上達せずの状態で、ちょっと引っ込み思案になったりする。全てが自分の思い通りにならないのが気鬱の種だ。「私にもやりたいことがあるのだ」
と、叫びたい気持ちがするが、どうも今の環境は不都合だらけだ。こうして段々と怠惰になって行くのだと思うと、ちょっと自分が情けなくなる。
ゴルフにしてからが、まったく興味がなかった。夫はゴルフだというと、苦手の朝起きも何のその、嬉々として出かけていた。香港もそうであるが、高温多
湿、炎天下のスポーツに魅力は感じなかった。しかし、老後を共通の趣味で過ごす時間を持ことも必要だと考えて夫に話した。はじめ陶芸はどうかと、当時通っ
ていた陶芸教室に引っ張りこもうと画策したが、これは「自分の骨壺は自分で作っておく」という、誘い文句に夫が抵抗を示して不首尾におわった。結果、ゴル
フは自分から妥協した産物だ。「ゴルフを始めようかナー」というと、最初の反応は少し迷惑そうだった。それが意外だったが、少し運動不足気味でもあったの
で、始めることにした。いざ始めようとすると、夫は己の失敗を繰り返さないためにも、と専門のコーチをつけてくれた。コースに出るのは6ヶ月後といわれ、
せっせと練習場通いを続けた。夫は昔、バンコク駐在時の24歳の時、我流で始めたのが災いして、35年たたっても足踏みしているのは、最初にちゃんとした
コーチに習わなかったからだと、今でも後悔しており葉子にこの轍は踏ましたくないと考えたという。
多少、ゴルフのおもしろさが分かった6ヶ月後からは、必ず土曜日か日曜日にコースに出かける習慣が付いた。所属するクラブが、ランタオという離島にあっ
たので、行き帰りのフェリーに乗っている時間の読書や、帰りには必ずなじみの日本食レストランでの夕食と、夫は結構気を遣って、週1回は台所から解放して
くれた。腕が上がると、その他のゴルフ場でと、アジア各地のゴルフ場を転戦したこともある。こういう時の夫は人が変わったようなこまめさで、航空券の手配
から、外国のゴルフ場の予約まで、実に生き生き働く。普段のものぐさが嘘のようになる瞬間である。
サンフランシスコ郊外のハーフムーンベイという街のゴルフ場の出かけたときはちょっとゴルフも良い物だと肯定できる心境になっていた。空気はからりと
し、海からの涼風は肌に心地よく、それにゴルフ場を取り巻く高級住宅群はまるで夢の中のたたづまいで、メンバーは紳士で、コースは完璧に整備されており、
サンフランシスコからタクシー代往復200ドルもそう無駄使いではないと納得したりした。こんな感じのゴルフ場行脚が出来た時期もあったが、それも一段落
する頃、チェンマイ移住となった。当地のゴルフ場は、近くで便利だが、家をでるときすでにゴルフの格好をしてで、プレーが終わったらそのまま帰って、自宅
でシャワーを浴びるという手順だ。これはアメリカなどと同じで非常に合理的と夫はご満悦だが、なんだかちょっと味気ない。帰宅してまた食事に出かけるの
も、おっくうでゴルフの夜は外食するという、良き習慣が失われてしまった。
夫のゴルフは横暴で、まるでゴルフ場が自分の所有物であるかのごとくに振る舞う。だからスタートで待たされるのは大の苦手、今の時期のように韓国勢がゴ
ルフ場を占拠している状態の時は、スタートも取りづらく、それだけで不機嫌だ。スロープレーなどにもうるさく、あれではゴルフを楽しむどころか、逆にスト
レスを貯めに来ている感じがしなくもないのだが、この傾向はチェンマイに来てから顕著になったもので、やはり口には出さないが、それなりのストレスがた
まっているのかも知れない。
時には、自分だけの時間を持ちたいのと、将来の夢をはぐくむためにYMCAに通い続けている。サンフランシスコに住むというの夢を実現するための予備訓
練だと思っている。英語がだめではどうしようもないことは、何回か娘の大学時代にアメリカで生活を一緒して痛感した結果。それと、週2回、数時間でも夫と
離れた時間がもてるのが嬉しい。帰り道は気侭にショッピングセンターを覗いたり、本屋の立ち読みをしたり、裏道を歩いて帰ると、こんなところに気の利いた
店があるのだとか、空き地に新築の邸宅が立ち上がるのを、日を追って眺めるのも興味深い。季節の移ろいがハッキリしないこの街でも、その変化はゆっくりと
徒歩で眺めれば、ちょっとした変化も見えてきて楽しめる。つくづく自分の思考は歩く速さに出来ていると痛感する。車のスピードでは見えない物が沢山あると
今では信じている。現在は落ち葉が散って、花が咲き出す季節。日本のように途中に寒い冬がないだけで、秋と春が一緒に来たような風情だ。この季節がすぎる
と日増しに日光が強烈になって、猛暑の最夏季がやってくる。一昨年はこの時期4、5月は日本に避難していたが、今年はどうしようと考えるのが、季節の変わ
り目の楽しみといえば楽しみか。
自動車でさっさと行く派の夫と、徒歩でゆっくりの葉子では所詮人生に対するスピード感が違いすぎるのかも知れない。
(つづく)
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