サ キさんのチェンマイ日記

                                        


「チェンマイの夕焼け」


  ■236■ 12
月 14日 2002
       
   ビザの切り替えで、写真を一年ごとに撮ります。素人の写真ではなく、専門の写真館で撮りますので、技術的には信頼できると思います。

 最近は、証明書の写真もデジカメを使って撮影しますので、10分くらいで出来上がり、随分と便利になりました。それにTシャツの模様なども簡単に消して くれたりしますので、衣装に気を使うこともありません。

 しかし、出来上がった写真に、こんなに驚いたのは今年がはじめてです。最初、白色のシャツを着ていて、白バックで撮ったので、顔だけが写った変な写真が 出来上がってしまった。シャツを代えて再度撮影となりましたが、それで、出来上がった写真を真剣に眺めたせいでもありますが、そこには全く別人が写ってい ます。頭の髪の毛がごま塩で、60歳をとおに過ぎてしまった老人がです。

 これは非常なる驚きです。まるである朝起きてみたら「虫」になっていた、あのカフカの小説の如くです。初めて、自分の声を録音して聞いた時に感じる「こ れは自分の声ではない、全く別人がしゃべっている」ように感じるのと同じなのです。男は、責任感がなくなると急に年をとるといいますが、それがまさにぴっ たりしているのです。毎朝、ひげを剃る時に覗き込む鏡の中の顔とは全く別人です。

 自分ではまだまだ若いと思っていますし、道行く女性がグラマーであれば、まだ振り返りもします。第一、心の中では、自分では40歳くらいだと常々思って いましたが、写真に写った顔は、充分に年をとっており、「まさに、じじい」といっても良い顔をしています。仕事をやめて2年で、こんなにもかわるものだと は驚愕の至りです。

 こんな顔になってしまったのだったら、一層ここと立派な老人になってやろうと考えたりしますが、そうすれば、必然的に「死期」も確実に近付いていること になり、そんなことは、今まで考えたこともないことなどで、慌てふためいているというのが現実です。家人はよく、「親の死んだ年齢を超えるのは感慨無量 で、これからは、親が体験できなかった時を過ごすのだから、その覚悟を強くも持たなくてはならない」、といっています。しかし、そこまでの自覚がなく、毎 日をなんとなく生活している現状は、いわゆる、時間に流されているだけだ、とは言いたくはありませんが、そんな面もあるのかもしれません。

 この写真を撮って以来、どうも自分の顔が気になって仕方がありません。人と話をしている時なども、ふとこの年老いた顔が浮かんできて、喋っている自分が 感じている年齢と相手が感じている年齢との差が気になって、口が重くなってしまいます。考えてみれば、喋っている自分は、まだ充分若く、気力も充実してい ますが、聞く相手はもう十分年齢を重ねた老人が喋っていると思っており、それでは、話の内容は年齢に相応しない「青臭い話」に終止していることになり、な んだかこのギャップが非常に気になってきます。

 親の年を越えて感じるのは、自分が見ていた父親自身は、実はまだ充分若かったということです。結構自信にあふれ、威厳すら感じていた父親の実際は、こん なに若く、自信がなく、不安だらけだったと考えると、今の自分に非常によく似ていることが初めて分かります。思い知らされました、今回の自分が感じた写真 のイメージが、まさにこれにあたると。結構人は、自身でこんな多面性を感じていたり、自分が考えていることと全く違う印象を、常に人に与えていることがあ るのだということが。

 これは非常なる問題です。年をとると言うことは、単に「死」を待つだけではありません。人は普段は「死」から一番遠い感覚でで生活しているものなので す。普段は「死」のことなど考えてもいない人が大半だと思います。しかし、時間は確実に経過しており、自分が心の中で考えたり、感じたりしているより、か なり高速度で時間はながれているようです。今回の写真を熟視して感じ、驚かされたように。

 チェンマイには、最近日本人の高齢者が多数移住してきています。先日もゴルフ場であった人が、「チェンマイ生活は暇でしようがない、もてました時間をど のように過ごせば良いか」と質問をもらいました。この人曰く、「自分はゴルフをやるのでまだよい、ゴルフをやらない人はいったい一日をどう過ごしているの だろう」と。
有り余る時間を有効に過ごす手だては、退職以前に解決しておかなければならない問題です。読書の趣味もなく、インターネットにも興味が無く、地元人との交 流にもその手だてが無く、連れ合いとの会話もなくなってしまっていて、離婚などしてやむなく独り身をかこっていたり、子どもから見放されてしまっていたり したのでは、チェンマイ生活も味気ないものに成り下がってしまいます。チェンマイはそんな人のたまり場にはなって欲しくはありません。

 先日YMCA の課外活動で「クイーン・シリキット植物園」に行きました。
ここは別名「ボタニック・ガーデン」。あのロンドンや、オーストラリア、香港にもある、有名なボタニックガーデンと組織が同じなのです。知らなかったこと なのですが「ボタニック・ガーデン」とは、イギリスに本部を置くアソシエーションで、世界中のボタニック・ガーデンは、一括管理されています。だからここ チェンマイにも本部から派遣されてきたイギリス人スタッフが活躍しています。旧英連邦の国にしか存在しないと思っていたので、ちょっと驚きました。チェン マイでは、サボテン、シダ類、蓮、亜熱帯植物群などの珍しい品種が育てられています。

 この植物園の途中に絶景のビューポイントがあります。何処までも続く山並みが一望できる場所ですが、九州出身者が「この景色何処がいいのですか?」と聞 いてきます。大自然を満喫出来る眺めですが、良く聞いてみると、出てきた九州の田舎の風景と何だ変わらないとのことです。ポイントはここにあると思いま す。人は、自分の回りに普通にあるものには別段の価値を見いださないということ。毎日の生活で新鮮な気持ちを持続するのは難しく、はじめは新鮮であったも のがそのうちに何でもなくなってしまって、刺激すら感じなくなってしまう。友人とのつきあいにしても、夫婦の 絆、移り住んだ場所、服装の好み、味覚・・・等々。

 別段は、強烈な刺激の中に、常にいる必要も無いと考えますが、新鮮な刺激は、時には心地よいものです。それをどう見出すか、どう感じるか、曇らぬ心を持 ち続けるのにはそれなりの努力が必要だと考えます。

チェンマ イの夕焼け